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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第九十九話『穴をふさぎ、穴を開く』

店内に、美しい音色が響く。
豊かな息が、音符を押し出し、
シャボン玉のように
たゆたう。

涼川小夜子は、演奏の素晴らしさに、
体を震わせた。
このフルートを演奏する女性は
…ただものではない。

ここは、神保町にある隠れ家空間カフェ
『かふぇ あたらくしあ』。
アンティークな家具と、抑えた照明。
そして存在感たっぷりの蓄音機。
でも、従来の名曲喫茶の堅苦しさはない。

『あたらくしあ』とは、
「外界にわずらわされない平静不動なる心の状態、
心から動揺をとり除いた境地」
という意味のギリシャ語。
快楽主義で知られる古代ギリシャの哲学者エピクロスは、
「幸福は快楽にあるが、外的なものにとらわれず欲望を否定した
内的な平静こそが最大の快楽である」と説いたという。

日頃、快楽に身を任せてばかりの小夜子には、
耳が痛い。
内的平静には、生まれてから一度も出会ったことがない。
だが、彼女はここが気に入っていた。
いや、正確には、店主の久保田克敏が、好きだ。

久保田のたたずまいには「こんなふうに歳を重ねたい」という
夢や希望が詰まっている。
中学3年生の頃夢見た「神保町で音楽とコーヒーを楽しむ喫茶店開業」を
現実にするため、会社を早期退職。
「かふぇ あたらくしあ」を開業した。
彼の座右の銘は「能力は“出す”もの 個性は“出る”もの」。

彼のお店では時々、イベントを開催しているが、
今日は、フルートの演奏会だった。
フルートを演奏するのは、谷煦ヌ実。
美しい瞳。整った白い顔立ちにショートヘアが似合っている。
小夜子は杏実と話すと、
自分の中の薄汚れた欲望が恥ずかしくなる。
杏実の中にある、森の中の清浄な湖のような純粋さが、
まぶしい。
杏実の演奏は、濁った心の湖を、
浄化してくれる…
これまでの…一夜限りの意味のない情事も、
昨晩の激しい咆哮も…
杏実の神聖で豊潤な音の粒が、消し去ってくれる…。

杏実の語る言葉には、哲学と文学がある。
「豊かなブレスのためには、『いつもの私』を見つけなくて
いけないんです」。と彼女は言う。

息のスピードを自在に操り、
自分が望むところにいかに息をぶつけられるか…。
穴をふさぎ、穴を、開く。
「私は、ふだん、本音を言うのが苦手で、好きとか、
愛してるも、どこかくさいセリフに感じてしまったり。
でも、フルートなら、言える。フルートは、私の
ストレスの代わりになってくれているんです」
愛くるしい瞳をキラキラさせて、杏実は語る。

小夜子は、ふと、杏実の前にひざまずいて、
全てを懺悔したい衝動にかられた。

かふぇ あたらくしあ

かふぇ あたらくしあ

URL
お店のHP

『フルートを持つ、谷煦ヌ実さん』

杏実さんと「かふぇ あたらくしあ」の店主・久保田さんは 不思議な縁でつながっている。
お二人とも、静岡県のご出身。
杏実さんは、大学在学中に、京都アニメーション 「響け!ユーフォニアム」公式吹奏楽コンサートに参加するなど 早くから頭角を現した注目の演奏家。
素敵な笑顔と共に、彼女の演奏をぜひ、一度体験してください!