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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第六話『三位一体』

神保町に、いくつもの提灯が飾られる。
秋風に、かすかに揺れる。
神田古本まつり。
一年に一度、このときだけここを訪れるひとも
いるかもしれない。
通りに並ぶ、古本たち。
涼川小夜子は、夜の古本まつりが好きだった。
ふわっと赤い提灯と、白熱灯のオレンジに照らされた出店。
本を選ぶひとたちの横顔に人生の陰影が刻まれる。

「この間、大阪で文楽見てきたのよ」
ギャラリー&カフェバー、クラインブルーの久保さんは、いつものように
包み込むような優しい笑顔でそう、言った。
彼女は、お店の美術担当。お店に飾られる絵画や写真の企画、運営を
まかされている。
店内には、小さな水彩画が何枚も飾られていた。
『絵日記展』。淡い色調の絵が、旅にいざなう。

カウンターでカフェオレを飲む小夜子に、
『艶姿女舞衣』という演目の話を、久保さんがした。
「元禄時代の実話、茜屋半七と、女芸人、三勝の心中事件を題材に
した人形浄瑠璃なの。半七は、お園という妻がありながら、三勝に
どうしようもなく惚れてしまい、お通という子供までつくってしまう。
おまけに三勝がもとでひとまで殺めてしまう。それでも妻、お園は、
待ち続け、半七に、今度生まれ変わったときにも、夫婦にと言われ、
喜ぶ……」
「いつの時代も、男は勝手ですね」
小夜子が言うと、
「それにしても、人間のやることには、変わりがないわね」
久保さんは、全てを達観したように微笑んだ。
「太夫、三味線、人形使い。三つが相まって成り立つ文楽は、
さながら生きていくことを表しているようだね」
小夜子は、いつか竹下がそう言ったことを思い出した。
「食べる、眠る、恋をする。仕事する、遊ぶ、恋をする。
人生は、いつも三つの要素で成り立っている」

恋をする…。
小夜子は、竹下の、一度も恋などしたことがなさそうな冷たい目を思い出す。
彼は心中などしないだろう…。
そして私も、そこまでできないだろう。
そんな白日の妄想の中にいると、
「竹下さんがね、あの絵を買っていったわよ」
久保さんが、カウンターの向こうの絵を指差した。
それは、クロアチアのドブログニク。
赤い屋根がいくつも連なる要塞都市。
「どうして、彼が、あの絵を?」
「さあ。その席にそうして座って絵を眺め、あ、これ、いいなって」
「どう、ですか」

湯島の床で、いつか話していたのを思い出した。
竹下は、長い指で私を弄びながら、
「クロアチア」
と言ったのだ。
「クロアチア?」
「南アフリカに住んでいる小さな鳥みたいな名前だと
思わない? いつか、行こうか、小夜子。一緒に。
そうして二度と日本に帰るのをやめよう」
話はそこで終わり、私の要塞はあっけなく落壊した。

「きっと小夜子さんにプレゼントするんじゃないかな、そのうち」
久保さんは、やっぱり優しく言ってくれた。
小夜子は、何も返さず、カップに口をつけた。

ギャラリー&カフェバー KLEIN BLUE

ギャラリー&カフェバー KLEIN BLUE

住所
神田神保町1-7 三光堂ビル2F

ナビブラデータベース

絵を飾る手

久保さんに会うと、いつもふわっとした空気に 包まれる。 優しくて、慈愛に満ちていて、解き放たれる。 何を話すわけでもなく、ずっとそこにいたいような 安心感。 彼女が「いいわね」と言うものを全部知ってみたいと 思う。そして彼女にいつか「いいわね」と言われるものを 生み出したいと願う。 そうして久保さんは、今日も絵を飾る。