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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第十話『消しゴムでも消せない匂い』

「ただの平らな消しゴムが、削っていくと、形になる」
消しゴム版画・イラストレーターのとみこはんが、言った。
とみこはんは、かつて神保町の古書店でアルバイトをしていて、
涼川小夜子とは、旧知の仲だった。
ひとをホッとさせる向日葵のような笑顔があたりを明るくする。
「それって、恋愛みたいだよね」
小夜子が言うと、
「もう、小夜子さんは、いつも、なんでも恋愛にたとえるから面白い」
と、とみこはんは笑った。
二人は、クラインブルーのカウンターでワインを飲んでいた。
小夜子は赤を、とみこはんは、白のグラスを傾ける。

「ねえ、とみこはん、私の今の顔、彫ってよ、消しゴムで」

小夜子は少し酔ってわがままを言った。
「いいですよ」
とみこはんは、まるでそんなリクエストが来るのを予測していたかの
ように、バッグの中から道具を出した。
先のとがったナイフのようなカッター。
白い、真四角な消しゴム。色づけのための絵具。
さっと下絵を描き、反転させる。
「ねえ、とみこはん、そうやって表と裏をひっくり返すところも、
恋に似ているね」
「え?どういうことですか?」
「だって、最初は、絶対、逆を演じるでしょ、女って。淫靡なひとは、
真面目を装うし、堅物は、大胆を見せたがる」
「そうかな、ごめんなさい、小夜子さんにはついていけないかも」
とみこはんは、削る。迷わず、削る。
「なんで、消しゴムの版画家になったの?」
小夜子が訊くと、とみこはんは答えた。
「引き返せないところが、好きだからかな」
「引き返せない?」
「あ、小夜子さん、また恋愛に似てるって思ったでしょ?」
「正解!」
「ちょっと、酔いすぎです」

でも小夜子は、とみこはんの言葉を興味深く聞いた。
「一度、削ったら、もうあとには戻れない。しかも、切れ味の鋭いカッターは
指を切るかもしれない。危ない。やり直しがきかない。そのギリギリ感が
好きなんです、きっと」。

小夜子は、竹下を思った。
彼が自分の身体を削るように撫でる指を思い出した。
竹下の長い指は、外側に払うのではなく、内側に這わせた。
小夜子の消しゴムは、削られ、撫でられ、整えられて、
竹下の思う形に変化した。
気がつくと、全く違う形になることを、女は求めている。

「あ、小夜子さん、今、めっちゃ色っぽい顔してますけど」
とみこはんに言われ、彼女は顔を赤らめた。
「やり直しがきかない、それが人生の大原則だよね」
小夜子が言った。
「そうかもしれませんね…はい、できました!」
とみこはんが作った小夜子の顔には、優しくて哀しい笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、私、こんな顔してるんだね」
「自分が思ったものと、ある意味違うものができる。消しゴム版画はそれも
楽しいんですけど、それも…」
「そうね、恋愛と同じ」
小夜子は、今すぐ、竹下に削ってほしいと、思った。

ギャラリー&カフェバー KLEIN BLUE

ギャラリー&カフェバー KLEIN BLUE

住所
神田神保町1-7 三光堂ビル2F

ナビブラデータベース

消しゴム版画・イラストレーターのとみこはんさん

とみこはんさんは、とにかく、サービス精神が旺盛な女性。 そこにいるだけで、まわりの空気がハッピーになる。 素敵な笑顔が天使を連れてくる。 キラキラした瞳はまるで森の小動物のように、好奇心に 満ちている。 このひとに自分の顔を彫ってほしいな、誰もが思う。 ひとをこんなに幸せな気分にしてくれるひとを他に知らない。
http://www.tomikohan.com/