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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

九十伍話『30秒、蒸らしてから……豆をほぐす』』

「どうして、こんなに速いの?」
「見ているから、窓の外を」

涼川小夜子は、自家焙煎カフェ『豆香房』神保町店で、
店長の東端佳織と話していた。

小夜子が、店に入るや否や、さっと
小夜子がいつも注文する「豆乳オレ」Mサイズが出てくる。
佳織は、窓の外に常連さんの顔が見えると、
すぐに作り始めるのだという。

『豆香房』は、良い豆、炒りたて、香ばしいというキャッチフレーズを
具現化した、素敵なカフェ。
珈琲日本百名店にも選ばれている。
代表の田村保之が、変わり者。
特殊印刷の会社の傍ら、珈琲の焙煎に興味を持ち、
何百万もする業務用の焙煎機械を買ってしまい……
結局、カフェを作ってしまった。
さらに、ブラジルにまで豆の買い付けに出向くなど、
自分の五感で豆を選ぶ。

最初にお湯で珈琲豆を蒸らす。20秒から30秒。
この蒸らしによって、豆の繊維がほぐれる。
この時間が、大切なのだ……。

小夜子は、佳織の笑顔が大好きだった。
可愛らしい少女のようで、濁りや雑味がない。
薫り高い珈琲豆のよう。
海上保安官の父のもと、小倉や仙台、横浜に清水など、
港々を転々とした経験を持つ。

転校が多かったひとは、ざっくり二つのタイプになるのかもしれない、
と小夜子は思う。
すぐに打ち解けるオープンマインドの持ち主か、
なかなかひととうまく接することのできない引っ込み思案。

佳織は、前者のオープンマインド派。
旦那さんに巡り合った経緯が素敵。
お店の窓から、素敵な男性が見えた。
毎日毎日、通りの向こうの中華料理店に配送している男性。
綺麗な彫りの深い顔立ち、がっしりした体格、腕の筋肉は盛り上がり……。

やがて……
カラン……ようやく、彼が『豆香房』のドアを開けて
入ってきた……。
何度か通ってくれる彼に、佳織さんは自分の連絡先を渡す。
それが……旦那さん。

筋張った肉体……小夜子が、蒸れる。
30秒、蒸れる……。
繊維が……豆が、ほぐれていく……。

「あっ」
豆乳ラテを飲みながら、カウンターで
思わず、声が出てしまう。

「小夜子さん、大丈夫」
「うん、大丈夫。蒸らすって、大事ね」
「ええ」
「あと、珈琲豆の天敵は、酸化よね。豆も、人間も、酸化して味や香りが劣化するのは、
辛いわ……」

言いながら、再び、「あっ」と声が出た。

「私は……酸化を防げない。ああ、今すぐ、酸化を防いでほしい。
熱い、熱い、お湯という名の、抱擁で……」

『豆香房』神保町店

『豆香房』神保町店

URL
お店のHP

『豆香房のマスコット、マメおじさんを持つ、東端佳織さん』

佳織さん……素敵なひとです。
全てを包み込む慈愛に満ちたマリア様のよう。
神保町店に通うひとの気持ちがわかる。
癒されるのは、珈琲のおかげだけではない。
ここに集うひとたちは、みな、笑顔でお店をあとにする。

佳織さんは、いつも、素敵な香りに満ちている。