• グルメ部
    今柊二の「定食ホイホイ」
  • 読書部
    とみさわ昭仁の「古本“珍生”相談」
  • 文芸部
    ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」
  • グルメ部
    高山夫妻の「おふたり処」
  • ジャズ部
    DJ大塚広子の「神保町JAZZ」
    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第参十壱話『濡れた午後と、カフェオレの泡』

「どうして、こんなに濡れてるの?」
家弓琢磨の声が、響く。
「ごめんなさい」
涼川小夜子は、素直にあやまる。
「びちゃびちゃじゃないですか」
「ほんとに……こんなに濡れたの、何年ぶりかな」

そこで家弓は、小夜子を事務所の中に引き入れた。
彼女は、冷たい秋雨の中、傘もささずに彼の事務所を訪ねたのだ。
神保町の雑居ビル。家弓がようやく自分の事務所を持った。
お祝いに駆け付けたのだが、途中で豪雨に遭遇。
小夜子は、かまわず、濡れた。
奥に引っ込んだ家弓が、白いバスタオルを持って戻ってくる。
小夜子の頭をゴシゴシと拭く。
「痛い、もっと丁寧にして」
「ごめんなさい」
小夜子は、思い出していた。
幼い頃、母親にたくさん心配してほしくて、わざと雨に濡れて帰った
午後のことを。
「からだ、震えているじゃないですか……。寒いんですね」
やはり、家弓の声は、下半身に響く。

二人で、「ギャラリー珈琲店 古瀬戸」に入った。
店内を埋め尽くす壁画。まるで海の底のような、まるで深い森のような
雰囲気。
抑えた照明にホッとする。
「僕の事務所には珈琲ひとつなくて、すみません。あったかいもの、
飲んでください」
「はい」
素直に言ってみた。
「いらっしゃいませ、小夜子さん」
アルバイトの渡部有希がテーブルにやってきた。ぱっと華が咲いたような空気になる。
古瀬戸は、小夜子が心を沈めるために訪れる場所。そんな彼女の気配を
瞬時に察してくれるのが、有希だった。
放っておいて欲しい時はあまり話しかけず、誰かと言葉を交わしたいときには、大学の話をしてくれる。
有希は、もともと本、それも古書が好きで、高校時代から神保町に
通っていた。
古い本の匂いと紙の質感に出合うために、この街に魅かれ、
ついにはバイトをする場所もここにした。
大学では日本文学を学び、演劇もやっている。
白くて綺麗な顔、森の中に凜と咲く百合のような佇まい。
小夜子は、歴代の彼氏を、彼女に見せてきた。
「私は、カフェオレを」
「僕は、ブレンドを」
注文を聞いた有希は、爽やかな笑みを残して、立ち去った。

「新しい事務所を持つって、どんな気分ですか?」
小夜子が尋ねる。
「デザイン事務所を、自分で持てるなんて、少なくとも三年前には思いもしませんでした」
「どうして?」
「ちょうど、三年前の、そう、いまくらいの季節。結婚しようと思ってた彼女にフラれて…。
で、まあ、ここがめっちゃ短絡的というか、ステレオタイプなんですが、インドに、ひとり旅に出かけたんです。
笑っちゃいますよね、女にフラれて、インド。
ほんと、インドに申し訳ない。
デリーに着いたら、いきなりバッグを盗まれて…」
小夜子は、視線は外さずに、ただ家弓の声を聴いていた。
彼は、彼女の心を覗き込むことも忘れて、ひたすらインドの話を続けた。
「私は、きっと、このあと、この男に抱かれるんだろう…。
この唇で体を舐めまわされるんだろう。
この指で苛められるんだろう。
この腕で抱きしめられ…身動きできずに」
小夜子は、家弓をただ、見ていた。

「でね、そのとき、どうしたと思います? 僕は」
いきなり質問されて、小夜子は我に返る。
「え? どうしたの? 全然、想像つかない」
「川に飛び込んだんですよ。はははは」
「そうなんだ、へえ、川にねえ…信じられない」
「でしょ。いや、僕も自分で驚きました」
そこへ、有希がやってきた。
「お待たせしました。カフェオレと、ブレンド、です」
「ありがとう」
家弓が、よそゆきの声で言った。
小夜子は、カフェオレの泡を、見つめた。
いますぐ、裸になり、その泡の中で家弓と戯れたいと、思った。

『ギャラリー珈琲店 古瀬戸』

『ギャラリー珈琲店 古瀬戸』

住所
神田神保町1-7 NSEビル1F
HP
ナビブラDB

『コーヒーを飲みながら読書する有希さんの手』

有希さんの耳に、素敵なイヤリングがあった。 お母さんが好きなカメオ。可愛い耳に似合っていた。 背筋がピンとしていて、目線が真っすぐ。 これからが楽しみな大学生だ。 本が好きな彼女は、 神保町で働くことが嬉しくてたまらないようだ。 彼女に会うために古瀬戸に通うひとは多いに違いない。