• グルメ部
    今柊二の「定食ホイホイ」
  • 読書部
    とみさわ昭仁の「古本“珍生”相談」
  • 文芸部
    ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」
  • グルメ部
    高山夫妻の「おふたり処」
  • ジャズ部
    DJ大塚広子の「神保町JAZZ」
    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第八十九話『太いギンポは、穴に入り、穴から出てくる』(しゃれこうべ)

「楽しかったなあ、ギンポ釣り」
「小夜子さん、とびきり太いの、釣れましたね」
「そうね、これくらい、だったかな」
「いや、もっと、太かったです、これくらいはありました」
「また、連れていってね、真衣ちゃん」

涼川小夜子は、神保町の路地裏にあるバー
『しゃれこうべ』のカウンターにいた。
冷えた中瓶のキリンラガーをコップに注ぎ、
美味しそうにごくごく飲む、小夜子。

『しゃれこうべ』は、昭和55年創業の、
神保町を代表する名店、杉浦真衣は、その三代目だ。
初代がお店をたたもうとしたそのとき、
店の常連客だった二代目が店を継ぎますと手を挙げ、
二代目が店をやめようとしていたとき、
常連客だった真衣が、店を継ぐことに決めた。
血縁ではなく引き継がれていく老舗の三代目。
いかにも神保町らしい……と小夜子は思っていた。

カウンターの向こうに立つ真衣を見て、
小夜子はしみじみ見惚れていた。
どうして、こんなにも素敵なんだろう……。
優し気な瞳は、暗い水底を照らす夜光虫のようにキラキラ光り、
ふわっと誰をも包み込む声は、晩夏のさざ波のように人の心を癒す。
いつまでも話していたい……。
おそらく、このお店に通う常連さんたちは、
皆、そう思っているに違いない……。

小夜子は、カウンターで飲んだまま、
ゆらゆら泳ぐ魚になって、昨晩の海遊を思い出していた。
相手は……天ぷらにして美味しいギンポというより、
鋭い牙を持つウツボだった。
果てるとき、首を絞められて、ほんとうに死ぬかと思った。
二度と、逢いたくない。
でも、思い出しながら、体のほてりを拭えない。

真衣は、フランス文学を専攻していた。
好きな作家は、フランシス・ポンジュ。
かつて小夜子は、ポンジュが書いた文章を、
真衣が諳んじるのを、聴いたことがある。

「かたつむりは、休むとみるまに、忽ち自分の奥底に
引きこもってしまう。逆に、裸体をあらわし、
傷つきやすい姿をみせたかと思うと、自分の羞恥心に
つき動かされる。体を露出したかと思うと、
もう歩きはじめている」
詩人、阿部弘一の訳は、素晴らしい……と言ったあと、
真衣は、こう続けた。 「この一節を読むと、小夜子さんのこと、思い出すんです」

私は……いつも湿った「かたつむり」……。

真衣は、常連さんたちと釣りに出かけるのが好きだ。
釣りの最も好きな瞬間は?と小夜子が尋ねると、
こう答えた。
「タコを釣り上げると、なぜかタコは必ず、
大空に8本の腕をぱあっ!と開くんです。それが、なんだか
可愛くて、綺麗で、いいなあって思います」

大砲の上にのった「しゃれこうべ」も、
真衣に優しく持ち上げてもらえたら、
おそらく、青空に大きく手を広げ、
にっこり笑うに違いない。

しゃれこうべ

しゃれこうべ

URL
お店のTwitter

『しゃれこうべの壁にかかったゴダールのポスターを指さす、店主・杉浦真衣(すぎうら・まい)さん』

お店に入ってすぐ左の壁。
ジャン=リュック・ゴダールの映画
『彼女について私が知っている二、三の事柄』のポスター、アンナ・カリーナが、大きな瞳で 迎えてくれる。
『しゃれこうべ』には、さまざまな
“部活動”がある。
その中のひとつが、句会。なんと!
94回を迎えるという。
酒と文化と語り合い──まさに、神保町!
ちなみに真衣さんの好きなタイプの男性は、
「よく飲み、よく食べ、よく笑うひと」
だそうです。