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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第七十話『左人差し指は、棹に対して、直角に……』

「左人差し指は、棹に対して直角に立っていますか?
それから、撥(ばち)は、あっちにフラフラ、こっちにフラフラせず、
打ったあと、ピタッと止まっていますか?
撥は、まっすぐ下ろして、まっすぐあげる、それだけでいいんです」
涼川小夜子は、先生の言うことを、じっと聞いていた。

小夜子がいるのは、神保町の路地裏にある『音福』。
三味線と小物のお店。ここでは三味線教室もやっていて、
生徒は、実に100人を超える。
日々の生活の中に日本の楽器・三味線が浸透すれば、
暮らしも豊かになるのではと、小山貢琳こと、下村洋子が、
立ち上げた店だ。
小夜子が、貢琳先生に津軽三味線を習い始めたのは、
大学教授の砂田の影響だった。
2008年4月に『音福』が出来た当初から、砂田は
小夜子に津軽三味線を勧めた。
「一緒に習おうじゃないか、せっかく神保町に降りた
伝統文化の種を、大切にしなくちゃねえ」
砂田は口だけで、結局長続きしなかったようだ。

彼と男女の縁を切った小夜子が、ある日、ふと足を止める。
『音福』の看板が目に入った。
砂田への未練ではない。ただ単に、三味線の響きが、
もともと好きだったから店内に足を踏み入れた。
貢琳の語り口は、優しく、それでいて情熱にあふれている。
演奏する美しい横顔を見て、小夜子はすぐに魅了された。
貢琳は、初代・二代目小山貢に師事。
第31期NHK邦楽技能者育成会卒業して、
“誰でも気軽に三味線にふれる機会を作りたい”の一心で
「音福」を立ち上げた。
教本「津軽三味線バイエル」は、初心者のバイブルになっている。

津軽三味線をまだやっていない頃、
デパートの和楽器売り場で譜面を見た瞬間、
三味線の音がいきなり脳内に鳴り響いたと貢琳は言う。

小夜子は、不謹慎にも、三味線を弾きながら、
つい、別れた砂田との逢瀬を思い出してしまう。
彼の動きは、正確な撥のようだった。
まっすぐ下ろして、まっすぐあげる。
その繰り返しが、延々、続く。
そこにブレはなく、果てることを知らなかった。
「打つ」「スクイ」「ハジキ」。

大切なのは、左手の人差し指。
砂田の左手の人差し指を、思い出す。

「打つ」「スクイ」「ハジキ」……。
勘所が重要だと、貢琳先生は言う。
勘所……。
男もそうだ。
いつまで経っても、勘所に辿り着かないひとがいる。
どんなときも、勘所がブレるひとがいる。
押さえるところは、しっかり押さえ、
つまびけば、
いい音が鳴るのに……。

三味線は、空気の湿り気で音が違う。
三味線の音色は、奏でるひとの、人差し指で変わる。
小夜子は、棹を、しっかり、
握った。

三味線と小物の店 音福

三味線と小物の店 音福

住 所
神田神保町1-38
URL
店舗HP

三味線と小物の店 音福

こんな路地裏に、三味線教室? と思うが、
防音設備が整ったスタジオがいくつかと、
優しい貢琳先生の笑顔が迎えてくれる。
先生の声、話し方、キラキラした瞳、全て素敵。
三味線の音色は、どこか遠い記憶を呼び覚ましてくれそうな
気がするから不思議だ。
3本の糸で世界を表現する貢琳先生、凄い!