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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第弐十八話『男は、征服した女の寝乱れた顔を、見ている』

涼川小夜子には、ヘアカットについての持論があった。
「セックスのとき、どんなに乱れても、髪型がスタイリッシュであること」。
男に弄ばれ果てたとき、真っ白な頭のどこかで、ベッドの自分を
見ているもうひとりの自分がいる。
乱れた髪。台風のあとの木々の枝のように、あっちこっちに放たれた髪。
うまい美容師は、そんなときこそ真価を発揮する。
計算されたかのように流れるライン。自然にカットされた髪先。
男は、見ている。征服した女の寝乱れた顔を、見ている。
小夜子は、その瞬間でさえ、男に印象を植え付けたい。
「俺は美しい女を抱いた」。

そんな髪型を実現する美容師にようやく出会えた。
冨田絢香。
神保町にオープンして一年が経った、hair&gallerybooks『moloco』の
クリエイティブディレクターにして、最強のスタイリスト。
どんな角度から見ても美しいシルエットに、初めて訪れたときは、
感動して言葉を失った。
「こんなにセンスのいい美容師にあったことがない」
小夜子は思った。

久しぶりに、『moloco』のドアを開ける。
「ここはなんて居心地がいいんだろう…」
小夜子は店内を見渡す。
ブックカフェのようなオシャレな空間。それでいて、ひとをふわっと
包み込む雰囲気。店長、高橋祐司のセンスと優しさがあふれている。
本が並んでいる。
小夜子が今日、目にしたのは、『透明標本』という本だった。
いわばそれは、魚の骨の写真集。
特殊な薬品につけることで、
「筋肉を透明化し、軟骨を青く、硬骨を赤く染色する」
という骨格研究の手法を利用した写真が並ぶ。
骨が、意志を持っている。
シンプルになればなるほど、動きが出る。
恋愛もそうだなと小夜子はひとり思う。
シンプルに好きだという感情が浮き上がれば、どう動けばいいか、
自分の動きが決まってくる。
動けないときは、余計なものが邪魔をしている。
そんなときは、全てを溶かし、骨だけにしてみるのがいい。

『moloco』のもうひとりのスタッフ、高森真凜が、笑顔で席に
案内してくれた。
彼女の笑顔には嘘がない。透明度の高い、北海道の湖を連想する。
いつか真凜は、小夜子に話した。
「私は子どもの頃、『三匹の山羊のがらがらどん』という本が好きでした」。

あるところに、小さい山羊、中くらいの山羊、大きな山羊の
三匹の山羊がいた。名前は三匹とも、がらがらどん。
三匹は山の向うの美味しい草を食べに出かけた。
途中に橋がかかっていて、そこには魔物がいた。
まず小さい山羊が渡る。
「おまえを食べるぞ!」
魔物に言われた小さな山羊は言った。
「次に来る山羊は、ボクよりもっと大きいよ」
魔物は見逃し、中くらいの山羊に
「食べるぞ!」
中くらいの山羊は「次に来るのはボクよりもっと大きいよ」
魔物は見逃し、大きな山羊に
「食べちゃうぞ!」
しかし大きな山羊は、魔物に立ち向かい、やっつけた。
三匹のがらがらどんは、めでたく美味しい草にありついた。

三匹、同じ名前。ということは、誰の心にも三匹の山羊がいる。
人生は一回勝負ではない。最後の山羊が勝てばいい。

「ショートにして」
と小夜子は、絢香に告げた。
「思い切り、切って」
絢香は、手際よく、髪にハサミを入れた。

「どうして、絢香さんは、いつもそんなに前向きで、素敵な笑顔を
保てるの?」
小夜子が尋ねると、絢香は答えた。
「知らないこと、今の自分にできないことが、たくさんあるからです。
私はもっともっと、自分のステージを上げたいんです。新しい風景を
見たいから」

molocoとは、『時計じかけのオレンジ』という映画で主人公たちが
飲んでいた牛乳のような白い液体のことらしい。
小夜子は、シートに身を委ね、
目を閉じて、イメージの中の白い液体を飲み干し、
非現実の世界に吸い込まれていった。

hair&gallerybooks『moloco』

hair&gallerybooks『moloco』

住所
神田小川町3-3-2 akimotoビル1F
HP
オフィシャル

ヘア&ギャラリーブックス『モロコ』 冨田絢香さん、高森真凜さん

モロコは、本当に居心地がよくてセンスのいい美容院。 それはそこで働いているひとの 心の優しさと豊かさから来ていることに気づく。 ちなみに、冨田さんの好きな男性のタイプは、 「何を考えているのか、わからないひと」らしい。 森の中の小鹿のような冨田さん、やっぱり笑顔が素敵です。