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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第四話『仮面の下の顔』

「奥さんのある人、私やつぱり好い氣持しないのよ」
そんな小説のフレーズに、涼川小夜子は、目を止めた。

神保町のスペインバル『BILBI』のカウンターで、
徳田秋声の『仮装人物』を読んでいる。
四十歳近くも年下の女性に翻弄された、秋声自身の体験をもとにした
私小説だ。
この本には、神保町の古書店が出てくる。小夜子という女性も登場する。
書かれたのは、昭和十一年。岩波文庫の解説は川端康成だ。
大絶賛しているが、小夜子には、それほど胸を打つものに、
思えずにいた。

「真弓さん、パクチーまみれ、頂戴」
小夜子が、店主の藤田真弓さんに言った。
このお店は、古民家をリノベーションした瀟洒な造りで、なにより
料理の美味しさと女性に嬉しいヘルシーさには定評があった。
「待ち合わせ、ですか?」
藤田さんが訊く。
「うん、そう」小夜子は短く答える。
小説の中で、小説家の庸三は、年若い葉子にのめりこんでいく。
彼女の故郷まで追いかけていく様は滑稽ゆえに哀しい。

竹下がお店に入ってきた。
いつもの黒縁メガネ。いつもの紺の皺ひとつないスーツ。
でも小夜子は知っている。彼のメガネをとった顔、乱れる髪、
執拗に繊細に動く、長い指。
「水曜日は、妻が遅番なんだ」
彼にそう言われたとき、小夜子は何でもないふりをした。
竹下の妻は、看護師だという。
彼の妻が遅番か夜勤のシフトのとき、二人は会った。

「藤田さんは、どんな男性がいいの?」
竹下が、真弓さんに訊いた。
「そうですねえ、優しくて、頭が良くて、面白いひと、かな」
彼女は、屈託のない笑顔で答えた。
素敵な笑顔。この笑顔を見るだけで、ここに来る意味がある。
小夜子は、思った。
私は、こんなふうに笑えない。
お店に飾ってある、ナウマン象を、見る。
六十五万年前に生きていたとされる、牙の長い、象。
象は、自分の引き際を知っているという。静かにいなくなるという。
「真弓さんのつくる焼きカレーは、最高ね」
気分を変えるために、小夜子はことさら高い声で言ってみた。
「ありがとうございます!」
真弓さんは、瞳をキラキラさせながら、微笑んだ。

その夜、竹下は、小夜子を苛めた。
小夜子が「許して」といっても、動きを止めなかった。
「何かあったの?」ベッドに丸太のように横たわりながら、
小夜子が尋ねると、
「別に……なんでもないよ」
竹下が答えた。

彼は、天井を見つめたまま、何かを考えていた。
空中に浮かぶ、クラゲを眺めるように、何かを見つめていた。
「何、考えてるの?」
「別に……なんでも、ないよ」

小夜子は、ふと、『仮装人物』の一節を思い出した。

「今のまゝで結構ぢやありませんか。」

今のままでいい。今は、今は…。
竹下がもう一度求めたとき、小夜子は一瞬、拒むふりをして、
そのまま溺れた。
秋声も、悪くない。そう思いながら。

BILBI

BILBI

電話
03-3293-3211
住所
神田神保町1-18-8
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土・日・祝
営業
11:30〜14:30、
17:30〜23:30

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料理を出す手

藤田さんの料理には、スパイスがある。 それはひとを元気にする、特別なスパイス。誰にも真似できない。 つくれない。彼女の笑顔に会いたくて、 今日もたくさんのお客さんが、やってくる。 この『BILBI』、二階の間が、昭和で少し背徳の香りがする。 徳田秋声が生きていたら、ここで原稿を書いたのではないか、 そんな部屋。 このお店でワインを飲むと、時代や空間を飛ぶことができそうだ。 藤田さんの手は、魔法が使える手。