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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第伍話『雨と月』

『身のうさは人しも告げじあふ坂の
夕つげ鳥よ秋も暮れぬと』

涼川小夜子が、諳んじると、隣の席の
秋山美恵は、すかさずこう訳した。
「我が身の憂いを、遠い場所にいる夫に告げるすべはない。
せめて、「逢う」と鳴く夕づけ鳥よ、
私たちの約束の秋が過ぎ去ってしまうと、夫に、伝えておくれ」
「美恵、さすがね。なんでも知ってるのね」
「ううん、たまたま読み返していただけ。上田秋成の『雨月物語』」
「男の身勝手な話よね。奥さんの宮木は、死してもなお、夫を待ち続けた」
「でも、約束の秋っていう感じがいいよね。確か、宮木、最後の句は、こうよね」
そういって、今度は美恵が諳んじた。

『さりともと
思ふ心にはかられて
世にもけふまでいける命か』

「それでも、いつか、きっといつか、夫は帰ってくる
そう思ううちに、ついにここまで生きながらえた」
美恵が淡々と訳す。
「死んでもなお、夫を想い続けるか…」
二人は、神保町のボンヴィヴァンのカウンターでワインを飲んでいた。
美恵は雑誌の編集者。江戸時代の作家を好んでいた。
小夜子の古書店に通ううちに、仲良くなった。

「で、どうなの?」
美恵がたずねる。
「どうって?」
小夜子は、もったいつけるように聞き返す。
「竹下さんとは最近」
いいかけたそのとき、
ドアが開き、黒縁メガネの彼が、店に入ってきた。
「どうも」と軽く頭を下げる。さわやかでクールな微笑み。
美恵は、ガタっと椅子を降りる。
「じゃあ、私はそろそろ会社に戻らないと……校了あるし」
「いいじゃないですか。ちょっと寄ったら偶然会っただけです。
三人で飲みましょうよ」
竹下の声が体に響く。
彼の声には、魔力がある。不思議な波動に、ゆさぶられる。
「そうよ、美恵、一緒に、飲みましょう。あと一時間くらい、
いいでしょ?」
小夜子が、いじわるな笑顔になった。
楽しんでいる。
今夜の二人の逢瀬に、私が使われる、美恵はそう思った。

「『雨月物語』には、哀愁がありますよね。人間本来の業が描かれていて…」
竹下が言った。
美恵は想像した。今、私をはさんで並んでいるこの二人が、触れあう姿を。
小夜子は、そんな彼女の様子に気づいたかのように、
こう言った。
「日常には、闇がひそんでいて、それを誰も払いのけることはできない。
ただ受け入れるしかない。上田秋成は、そう言っているように、
私は感じる」
「やっぱり、そろそろ行かなくちゃ」と美恵が席を立った。
出ていくとき、閉じる寸前のドアから竹下が小夜子の髪をなでるのを
見た。

細くて白い指が、さあっと真っ直ぐ下に、落ちた。
小夜子は、こっちを見て、薄く微笑んだ。
外は、雨だった。
秋の冷たい、雨だった。
美恵は足早に、路地を行き、暗闇に消えた。
黒い猫が目を細めて、その行方を追った。
その瞳はまるで三日月のように、妖しく光った。

風讃社

風讃社

住所
神田神保町2-44

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赤字を入れる手

秋山さんの瞳は、深くて強い。 いつも何かを探しているような、瞳。 でも、笑うと一瞬でまわりの空気を変える。ふわっと包み込む。 「このひとのためならやらなくちゃしょうがないか」と、思う。 不思議な波を持った女性。そんな彼女が校正紙に赤字を入れる。 その手は、彼女の波を伝え、波と共に揺れる。 やがて素敵な作品が世の中に拡がっていく。