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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第四十五話『能面は、知っている』

「ひとの幸せや成功は、全て、そのひとの潜在意識の中にある」。
無能唱元の人蕩術の本に、そうあった。
人蕩術(ひとたらしじゅつ)。ひとをたらす、すべ。
涼川小夜子は、じっと淫蕩の蕩の字を見つめる…。

「その本、けっこうな値段するけれど、人気があるのよ」
振り向くと、そこに高山美香がいた。
ここは、創業明治8年の書肆 燻R本店。美香は、五代目の旦那さんに
嫁いだ奥さんだ。
小夜子とは古書店の寄り合いで知り合った。
小夜子の父親と燻R本店の先代が懇意にしていたことから、
小夜子が幼い頃から店に出入りしていた。
燻R本店は、神保町の古書店を牽引してきた老舗の風格に満ちている。
かつて、司馬遼太郎もここを頼りにしていた。
日本にやってきた南蛮渡来の船が、どんな経路を通り、どんな経緯で
難破、遭難したのか。それを知りたくて、司馬は「海流関連」の
本を求め、燻R本店に文献を託した。
多くの作家たちのシンクタンク。文学作品やノンフィクションの
著作物を支え続ける使命が、古書店にある。
その矜持と誇りが、店内に漂っていた。

「舎利倉和人に、再会したんだって?」
美香に言われて、体の奥がじんと痺れる。
「どうして知ってるの?」
「翠ちゃんに聞いた」
翠も古書店の仲間だ。
「あれだけ振り回されて、あれだけ泣いたのに、まさか、
また、つきあう気じゃないわよね?」
美香は、優しい顔で言う。
彼女には全てを包み込む聖母のようなオーラがある。
「まさか…つきあうわけ、ないじゃない」
言いながら、言葉に力がない。
嘘は、美香には通じない。

和人に、抱かれた。
久しぶりだった。まるで昔住んだ家に久しぶりに入っていくように、
彼は小夜子の体のドアを、強引に、ときに優しく、開けた。
懐かしい「部屋」を開けるたびに、和人は確認し、明確に痕跡を残した。
そのたびに増えていく、体の刻印。彼は嫉妬深く、
小夜子が他の男性の前で裸になれないように、
体のいたるところに、マーキングしていった。
昔と、変わらない…。
でも、一度全ての「部屋」を見られている安心感と解放感は、
心地よかった。
幾たびか、声をあげる。
そのたびに、彼は満足気に小夜子を見下ろした。
「部屋」をひと通り確認し終わると、彼は激しく、いった。

「わかってると思うけど、小夜子さん、あの男だけは、
やめておいたほうが、いいよ」
美香の声は、どうしてこんなに慈しみに満ちているんだろう。
彼女の綺麗な横顔を見ていると、揺るぎない人生を送るひとだけが持つ
強さに気がついた。
自分は、どこでどう、道を間違えてしまったんだろう。
なぜ、自分は、美香のように生きていけないのだろう。
小夜子は、己の潜在意識を探る。
でも、心の底に石を投げても、音は聴こえてこなかった。

燻R本店のショーウィンドウに、能面が置かれている。
小夜子は、それをじっと眺める。
日々、違う表情を見せる、能面。
それは自分を映す鏡。
「小夜子さん、あなた、もっと自分を大切にね」

靖国通りに出ると、夜が降りてきた。
木枯らしに身を縮めながら、小夜子は思った。
「私は、それでも…会いにいく。これから、和人に、
会いにいく…」
淫蕩の蕩の字が…心の中でどんどん、大きくなっていった。




書肆 燻R本店

書肆 燻R本店

住所
神田神保町2-3 神田古書センター1F
営業
10:00〜19:00(日・祝11:00〜18:00)
定休
無休
URL
店舗HP

『能面を指さす、高山美香さんの手』

美香さんは、ふわっとした柔らかい雰囲気のひと。
本が好きなので、こうして本に囲まれる生活は楽しいという。
燻R本店には、武術の本が多くあるので、
世界中から武闘家がやってくる。
空手はインターナショナルなスポーツだ。
そんなゴリゴリの闘士たちと美香さんが話す姿を想像すると、
なぜか和む。
美女と野獣。彼らも癒されて森に帰っていくに違いない。