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    2012〜15年掲載

ピエール大場の官能小説「路地裏のよろめき」

ピエール大場著者プロフィール
神保町にある某会社の開発本部部長。長野県出身。かつて「神保町の種馬」と異名をとったほどのドン・ファン。女性を誘うときの最初の言葉は、「美味しいもの食べにいきましょう!デザート付きで」
『NISSAN あ、安部礼司』HP

第壱話『春の琴・指の感触』

「男のひとの、やわらかいものに触れるのが、好き」
涼川小夜子は、そう思っていた。
男のひとの心には、必ずやわらかい部分がある。それを見つけ、
そっと手をさし伸ばす。すると、彼らは緊張し、いきりたち、
一度は拒絶する。でも、ふわっと包むように両手でいざなえば、
やがて受け入れる、全てを。
小夜子は、神保町の古書店に生まれた。
裏通りのその店は、震災や戦災をくぐりぬけ、その姿を
留めた。彼女の記憶の多くは、古い本と共にある。

「あの、ちょっとよろしいでしょうか?」
小夜子が行きつけのお店、「ボンヴィヴァン」のカウンターでひとり
飲んでいると声をかけられた。黒縁メガネをかけたスーツ姿の男性。
年齢は、三十代後半くらいだろうか。左手の薬指には指輪があった。
女性のように繊細で長い指が、妙に艶めいている。
小夜子がさっとその色白な顔を男性に向けると、
「あ、いや、なぜ、さっきから本のページを繰らないのか、気になって
しまって……すみません。読んでらっしゃるのは、『春琴抄』、ですよね、
しかも、もしかしてそれ、初版本、ですか? とっても古い」
カウンターの向こうの悦子ママが、こちらを見て小さくうなづく。
彼女は無言のうちにいつもおしえてくれるのだ。
“このお客さんは、変なひとじゃないから、だいじょうぶよ”
小夜子は安心して、言葉をつなぐ、
「わたし、古い本の匂いが好きなんです」
「じゃあ、読んでいるのではなく、嗅いでいるのですか?」
「ええ、そうです。嗅いで、そして味わっているのです」
男性は、自分のグラスに目を落とし、
「まるで、ワインみたいですね。この赤ワインは、ギガルのクローズ・
エルミタージュ。華やかに拡がっていくというより、シラーは、内側の
影の部分に落ちていく」

あれはまだ、小夜子が小学三年生の頃だった。
腹痛を覚え、早くに学校を退した。
表の店のガラス窓は、まぜか閉まっている。仕方なく裏にまわり、
御勝手口から入ろうとすると、ガタっと店で音がする。
「おかあさん?」小さく呼んで、本が積まれた店内に行くと、
くぐもった声が聴こえた。
瞬間的に、これは聴いてはいけない声だと思う。でも、好奇心という
大きな掌が背中を押す。
また、大きな吐息がやってくる。
小夜子はじっとその場にいた。古い本の匂いを嗅ぎながら、
じっとそこを動かなかった。
おそるおそる顔を出すと、母の指が見えた。母はいくつも並んだ本の
背表紙を触っていた。その母を後ろから抱きしめているのは、見習いの
健一さんだった。母の指が、文字をうつろう。母の指が、本の背をつたう。
また深い、息がもれた。
小夜子は、積んであった本にぶつかり、大きな音がした。

「古い本の匂いを嗅ぐと、身体の芯から、痺れがやってくるんです」
小夜子は男性に幼い頃の記憶は話さずにそう言った。
男性は、しばらく小夜子とワインを見比べたあと、
「ちょっと、いいですか?」と小夜子から本を取った。
長い指が本をめくる。つかんでは、放し、つかんでは、放す。
小夜子は、その指を見ていた。まるで自分の一部が触られているかのように、息が、漏れた。
「確かに、いい、匂いがしますね。なんだか懐かしくて、ちょっと」
「ちょっと?」
「色気が、ある」
本を返してもらうとき、小夜子は男性の手に触れた。
そのあたたかさ、やわらかさに、思わず、目を閉じる。
ふ〜。もう一度、息が出た。

ボンヴィヴァン Bon Vivan

ボンヴィヴァン Bon Vivant

電話
03-6421-2541
住所
神田神保町1-64 神保町ビル1F
休み
日・祝
営業
18:00〜24:00(土17:30〜22:00)

ナビブラデータベース

ワインを注ぐ手 「ボンヴィヴァン」悦子さん

悦子さんが、この神保町の路地裏にお店を出したのは2006年の10月10日(10月10日は、わが部下、安部礼司の誕生日だ)。店の名前は生きることを楽しむ≠ニいう意味の「ボンヴィヴァン」。しかし皮肉にも、店をオープンして3か月で悦子さんに癌が見つかった。いきなりの入院。そして苦しい闘病生活……。でも、彼女は生きることを楽しむ≠アとにした。
そうして昨年、医師からやっと言われた。「もう通院しなくていいよ」。そう、やっと完治したのだ。彼女の手は、知っている。この人生が1度しかないこと。だからこそ、めいっぱい、楽しむべきだということを。