誰かが大正のことを「恋の時代」と言っていました。なるほどお騒がせな恋愛事件が多かった。明治の終わり頃から大正時代かけて、よく知られている事例をあげてみても、与謝野鉄幹と鳳(与謝野)晶子、平塚らいてうと森田草平、北原白秋と松下俊子、柳原白蓮と宮崎龍介、島村抱月と松井須磨子、有島武郎と波多野秋子……。
 あれ? ちょっと待って。恋は恋でもこれ、みんな不倫じゃないか。
 さらにこの時代、あちこちで恋のさや当ても。大逆事件の大杉栄と伊藤野枝、神近市子。奥さんを佐藤春夫に譲渡した谷崎潤一郎。竹久夢二と伊藤晴雨とモデルのお葉。妻かの子の若いツバメ、堀切茂雄を同居させた岡本一平。中原中也と小林秀雄と長谷川康子なんてのも。さまざまなシチュエーションの三角関係です。
 まだまだありそうだな、くっついたり離れたり。ふうむ、してみると大正は不倫の時代だった? ショッキング・ピンク! 挑発的桃色とでもいうのかしらん、大正時代。いやもしかしたら、これも「自由と民権」っていえないこともない。するとデモクラシーの余波か。
 いや男女の仲なんて神代の昔から今に至るまで、さほどの違いはないでしょう。むしろこの時代は新聞雑誌の発達で、つまりマスコミによってこのような恋愛ゴシップが、それまで以上に世間を賑わしたとするべきかもしれません。いつの時代も著名人のスキャンダルは耳目をひくんですね。今も昔もかわらない。

 『青踏』『白樺』。ピンクではなく青と白。純で清々しい、若々しさを感じる色です。大正らしい雑誌といったら、やはりこれらを選ぶかな。さっきうっかり「みんな不倫じゃないか」って決めつけたけど、失礼、一組だけそうじゃないカップルがいました。らいてう女子(平塚雷鳥)と森田草平氏。若い二人の心中未遂事件は、塩原事件とか煤煙事件なんて呼ばれています。あえて書くこともないでしょうけど、大略を記すと……
 父さんは明治政府の高級官僚、母さんは田安家御典医の娘。娘の明(はる)は裕福な家庭で育ち日本女子大を卒業するのですが、良妻賢母の教育にはあきあき。読書好きで哲学やら禅やらに凝り、男嫌いで通っていました。そのお嬢さまがなんと、あろうことか遺書を残して家出をしてしまいます。明治も終りの春浅い三月のこと。すわ世をはかなんでの自殺か?周囲をあわてさせるのですが、数日後、雪の塩原で男と一緒のところを保護されます。相手は文士の卵、森田草平。夏目漱石の弟子です。二人で心中を企てはしたものの果たせなかった。
 事件は世上を賑わし、新聞雑誌にあることないこと書きたてられるのですが、草平は漱石の勧めで自らの心中未遂を題材に『煤煙』を書きあげます。作品は大いに売れて一躍文士の仲間入り。一方スキャンダルにまみれ、いったん逼塞していた明も、やがて「らいてう」に大変身。女性解放運動の旗頭として世に立ちます。正直いうと作家としての草平はこれ一作という印象です。が、らいてう女史にとってはここが出発点となりました。
 「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」
 じゃあ、そのとき男はなんだった? などと茶化してはいけません。彼女は敵を見つけたんです。悪罵なにくそ、世間体なんぞ知ったことじゃない、不自由な生き方なんかしたくない。女の「自由開放!」であります。この勢いで発刊した『青踏』は、多くの女性たちの賛同を得ました。茅野雅子、田村とし子、野上弥生子、水野仙子、尾竹紅吉、神近市子、伊藤野枝…、といったさまざまな才能を擁する青踏社は、さながら女性版梁山泊。らいてうの言葉をかりれば「日出づる国の東の水晶の山の上に、目映ゆる黄金の大圓宮殿を営まうとするもの」、となりましょう。ちなみに岡本かの子の第一歌集『かろきねたみ』も、ここから発行されています。

 その後のらいてうの歩みはさておき、雑誌『青鞜』の名前の由来は青いストッキング。直接には18世紀中頃に英国で活動していたブルー・ストッキング・ソサエティを日本語に置き換えたそうですが、本来はおしゃれで知的な女性を意味するようです。上記した有名な発刊の辞「原始、女性は太陽であった」のなかで、らいてうは『白樺』のロダンの特集から強いインスピレーションをうけたと述べています。学習院の金持ちの坊ちゃんたち、おっと、若きインテリたちが中心となって創刊された雑誌『白樺』の理念は理想主義、人道主義、個人主義だといわれています。
 ふうむ、白樺派か。現代風にわかりやすくいえば、ダーク・サイドと闘うジェダイの騎士でしょうか。人間の暗黒面を否定し、個々の才能を発揮して、互いに信じ助け合う、そんな理想の社会をめざすんだ、と。もっとも映画の『スター・ウォーズ』では、選ばれしジェダイ・ナイトたちは戦場でバタバタ倒れていきますが、わが白樺ナイトはみな長命でした。
 志賀直哉89歳、武者小路実篤92歳、有島生馬93歳、里見ク95歳、画家の梅原龍三郎と中川一政は97歳……。結核などの病気で早世した同人も幾人かはいますが、このグループの平均年齢はメチャ高い。そう、長生きするなら白樺派。でも、これだけなら目出度いばかりで何てことない。はやりアナキンこと、ダース・ヴェイダーがいなければドラマが盛り上がりません。
ここに登場するのが有島武郎。誰かが有島は白樺派の異端といっていました。不倫と自殺という「ダーク・サイド」に魅入られてしまったから? ふうむ、そうなの? けれども実は彼こそが、もっとも白樺派らしい理念を生きた人ともいえましょう。痛々しいくらい。
 有島は大蔵官僚の子として生まれます。学習院中等科を卒業したのち、理想を求め札幌農学校へ。内村鑑三らの影響でキリスト教へ入信し、短期の軍隊生活を経て渡米。ハーバードに学び、西欧の文学や哲学に加え社会主義を識りますが、同時に身をもって人種差別を体験、西欧社会への疑問や宗教への幻滅も感じとり、やがて棄教します。
 帰国後は東北帝大農科大学(元札幌農学校)の英語教授となり結婚。その頃に『白樺』の同人になります。やがて妻に先立たれ、本格的に作家活動を開始。『カインの末裔』『小さき者へ』『生まれ出づる悩み』『或る女』などなど短期間に旺盛な執筆をこなし、小説や評論を世に送ります。が、やがて創作に行き詰まり、大正11年『宣言一つ』を発表。
 翌年、父から受け継いだ北海道ニセコの有島牧場96万坪を小作人に無料譲渡します。私有者のいない社会主義的な農場運営を夢見るのですが、現実はかなり小作人たちとの桎梏があったようです。さらにこの農場は体制側からも警戒され、工事の補助金に不正があったと難癖をつけられて、農場の責任者が有罪となってしまいます。このことは有島に深い心の傷を負わせました。
 なんだかんだで翌年、婦人公論の記者であった波多野秋子と恋に落ちるのですが、秋子は人妻でした。さらにその亭主からやくざまがいの脅迫を受けるなど、私生活面でも行き詰まり、ついには軽井沢の山荘で秋子と心中してしまいます。大正12年6月、有島は47歳でした。

 革新があれば旧体制(アンシャンレジウム)からの巻き返しもある、そんなことはいつの時代だって同じです。若い世代は自由と変革を望み、年よりは概ね安穏を求める。時代というのはいろんな具を混ぜこんだシチューみたいなものですね。さまざまな具材が絡み合い、全体の味を作ってしまう。そんな中、有島もらいてうも、きつい香りのスパイスのような人生を歩みました。むろん自由と変革を望んだわけですが、それにしても対照的な二人です。
 かたや高い教養と理想に十二分の資産を持ち、文筆の才にも恵まれた有島。しかしながら彼は理想と現実のはざまで悩み続け、果てはすべてを投げうって人妻との心中で世を去ります。有島の生き方を俯瞰すると、つねに「高きかのもの」を見つめながら、目の前にある石ころにけつまずいているようです。純白がやがて灰色に、そして真っ黒に。
 一方、同じくお嬢様育ちではあるものの、傍目には愚かしい心中未遂事件を契機に、家を飛び出して「新しい女」たちを生み出したらいてう。肝がすわったのでしょう。その後も、あちこちにおでこをぶつけながら、晩年は女性解放に加えて反戦平和運動に参画。自ら信じる道を進み続けました。彼女は生涯「青いストッキング」を脱ぎませんでした。
 残された文章を読みながらあくまで個人的な感想ですが、有島の求道者的な煩雑さ、理に勝ち過ぎる印象に比べ、らいてうも結構むつかしい言いまわしをするものの、行動原理はわりかしシンプルではないのかなあ。そんな風に思えるのです。空理より行動。つまるところ義侠心というか、「弱きをたすけ、強きをくじく」じゃないのかなあと。思想も生き方も、シンプル・イズ・ベストなのかもしれません。
 心中未遂で人生がはじまった女と、心中で人生を終えた男。二人の青と白のベクトルは、大正時代というスクランブル交差点を、真逆の方向へ進んだようです。

『文壇照魔鏡 第壹 与謝野鉄幹』
大日本廓清会 明治34年
『みだれ髪』与謝野晶子 東京新詩社他 初版 明治34年

 上は明治文壇の一大ゴシップ、与謝野鉄幹を陥れる「文壇照魔鏡事件」の原因となった著名な冊子です。奥付の発行者は「大日本廓清会」、代表は田中重太郎とあるものの、会も代表者も横浜市賑町云々とある住所もすべて架空。
 さらに目次には、鉄幹は妻を売れり、鉄幹は処女を狂せしめたり、強姦をはたらけり、少女を銃殺せんとせり、強盗放火の大罪を犯せり云々と、センセーショナルな見出しが並び、鉄幹に対する誹謗中傷に終始します。ほとんど事実を歪曲したでっちあげ。怪文書の類ながらも、各所に配られ書店にも並びます。ために鉄幹も『明星』も大迷惑、七千にも及んだ読者は激減し、いっときは直接購読が十数人にまで落ち込みました。鉄幹は裁判に及びますが証拠不十分で敗訴。
 このために妻子にも去られ八方塞がりの鉄幹でしたが、この直後に晶子が堺の実家を飛び出し、鉄幹のもとへ走ります。近代きっての名歌集『みだれ髪』の誕生です。その情熱的な恋愛歌は若い世代を魅了し、新スター与謝野晶子の登場により、新時代のロマンティシズムの拠点として『明星』も見事に復活しました。
 ちなみに小島吉雄著『山房雑記』(桜楓社 昭52)に収録される「『文壇照魔鏡』秘聞」によると、本書の筆者は新声社(のちの新潮社)の佐藤橘香と田口掬亭だそうです。

『戀の白蓮夫人』
八瀬不泥 時事出版社 初版 函付 大正10年11月12日

 筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪! 大正10年10月20日、大正天皇の従妹で九州の大富豪・伊藤伝右衛門の妻・Y子(白蓮)は夫と上京した際に突如、姿を消し、かねてから恋仲であった若き新聞記者、宮崎龍介のもとへはしります。
 あまりに有名なので事の次第ははしょりますが、本書は事件が公になって僅か20日あまりで上梓されました。上製布表紙の函付本で、巻頭には写真もふんだんに挿入されています。かなり印刷屋や製本屋を急かしたのでしょう。著者の八瀬不泥氏、おそらく刊行者・相葉又一郎の筆名だろうと推測するのですが、「やせふで」どころか実に機を見るに敏であります。

『青鞜』
記念号 第2巻9号(大正1年9月1日)

 青鞜の一周年記念号です。目次には原田琴子・小笠原貞・木内錠・武山英子・加藤緑・杉本正生・神近市・白雨(保持研子)・(尾竹)紅吉・与謝野晶子・野上弥生子・加藤籌・岡田八千代・長谷川時雨・瀬沼夏葉・水野仙・田村俊ら、ばりばりの「新しい女」たちの名が並んでいます。
 ちなみに本号の編集は、尾竹紅吉の病気療養のため、神奈川の茅ヶ崎で行われました。巻末近くに同人らが、夏の浜辺近くの松林で写した写真も挿入されています。

『煤煙』
森田草平 金華堂・如山堂刊 初版 カバー付 明治34年〜刊行 4冊揃

『煤煙』特製版
森田草平 植竹書院 函付 大正3年6版 油彩画表紙本

 初版本はカバー付の4冊本。この第一巻、奥付に「訂正三版」と記載されていますが、どういう訳かそれが初版本。心中事件が題材なので当局の検閲があったから?
 よく知りませんが、危うい箇所を幾度も書きなおしたという意味かもしれません。
 さらに大正初期には植竹書店から袖珍サイズで復刊されます。その際に、一部特製の限定版が作られました。一冊一冊の表紙をキャンバスに見立てて画家が油彩を描き、草平肉筆の扉字が挿入され番号が記されています。これがわが国における欧米風の、いわゆる「特製本」「限定本」のはしりとされるようです。

『かろきねたみ』
岡本か乃 歌双紙一 青踏社 岡本一平装 大正T

 甲羅を経た古本屋に岡本かの子で珍本、つまり値段のたかーい本は?と問えば、「かろきねたみ、あいのなやみ」と答える筈。第一歌集『かろきねたみ』和装本、第二歌集『愛のなやみ』カバー付は、いずれも近代の歌集にあってとりわけ稀覯本扱いされるのです。
 「力など望まで弱く美しく生れしままの男にてあれ」 こう歌われた、かの子の息子がご存じ岡本太郎。芸術は生きることそのものなんだと。他の人だと気障ですが、この親子ならば納得。

『白樺』第十号 岸田劉生表紙画
 武者小路実篤と志賀直哉を中心に、学習院の仲間十数人が金を出し合い刊行したのがはじまり。日本離れした赤城山麓の白樺樹林にちなんで命名されたそうです。白樺派というと、ついついお金持ちで育ちのいい坊ちゃんたちのグループね、という感覚で見てしまいますが……。

有島武郎著作集
第三輯『カインの末裔』、第七輯『小さき者へ』 新潮社・叢文館

 第一輯『死』(大正6年)からはじまる16冊の著作集ははじめ新潮社から、やがて友人足助素一(あすけそいち)の経営する叢文閣から刊行されました。
 ちなみに第十六輯『ドモ又の死』(初版・大正12年)の巻末広告を覗いてみると、第一輯『死』42版、第二輯『宣言』42版、第三集『カインの末裔』31版、第六輯『生れ出る悩み』72版、第十一輯『惜しみなく愛は奪ふ』74版と、各冊ともに何十版も版を重ね、当時いかに有島が人々に読まれていたのか窺えます。