アンデルセンの『赤い靴』は教訓的で残酷な童話。でも、もし誰よりも綺麗な赤い靴を履いて踊れるのなら、死ぬまで踊り続けたっていい。そんな風に考えるのが女優の資格なのかもしれません。
   いま流行りの芸能人というとAKBでしょうか。韓流スターも相変わらず人気のようです。筆者の年令ですと先日、惜しくも星になってしまったスーちゃんこと田中好子の居たキャンディーズが懐かしい。おっさん仲間ではしばらく、事あるごとに、あーあ、スーちゃんも逝っちゃったしなー、という嘆息が、決めぜりふのように吐かれておりました。
   「普通の女の子に戻りたい」「私たち、幸せでした」と、彼女らが解散した昭和53年は、たしか僕らも社会人一年生。とくに「私たち、幸せ」ではなかったけれど、それでも執行猶予(モラトリアム)ももうお終い、という気分だったことを覚えています。
   いつの時代にもそれぞれの記憶に残るスターは存在するのでしょうが、かつてのわが国の場合、江戸時代は歌舞伎役者がその座にあって、これはご承知の通り男だけの世界。女は舞台に立てず、男子にとっては残念ながらAKBもオニャン子も、スーちゃんも出番がなかった。考えてみると少々偏頗な決め事ですが、まあ美人ひとりで国も傾くそうですから、庶民があまりはしゃがないように、カブキすぎないようにというお上の目算だったのでしょう。けっきょく出雲の阿国たちが活躍した遠い昔を度外視すれば、明治になってはじめて舞台の上に本物の女性が登場するわけですね。
  誰もが知るように、近代日本の女優第一号は川上貞奴。もとは江戸、いや東京きっての芸妓でしたが、♪オッペケペーの壮士芝居で人気を博した川上音二郎の妻となり、明治32年、川上一座が洋行中に舞台デビューします。あちらでは大いに評判になったようで、ジイドやピカソなんかも絶賛したと聞きます。が、正直なところは芝居の力や演技力というより、キモノを着た美しいジャパニーズ・レディが踊ったり芸をしたりする珍しさ、エキゾチシズムが、西洋人の好奇心を大いに刺激したとするべきでしょう。
   貞奴は帰国後も舞台に立ちますが、音二郎が没したのち、しばらく芸能界から引退します。彼女の意義は女優第一号であるとともに、音二郎と共に帝劇で女優養成をはじめたことにあるかもしれません。貞奴自身は花柳界出身ですが、この女優養成所はフツーの女子が舞台を、職業としての女優をめざすところにあり、そこに登場するのが森律子でした。律子の名は今それほど語られませんが、『わらはの旅』『妾の半生』『女優生活廿年』などの著作もあり、古本屋には馴染みのある名前。明治末から大正にかけて帝劇のスターでした。
   もともと彼女の実家は裕福な弁護士。のちに律子は喜劇脚本家「太郎冠者」こと、三井財閥の御曹子で、お芝居に夢中だった益田太郎をバックに帝劇トップの座を占めるのですが、なにぶん当時のこと、娘が女優になるというだけで大変なスキャンダルでした。河原乞食なんぞもっての外と、卒業した跡見学園の同窓会からも除籍されてしまいます。さらに女優になった姉を恥じ、なんと一高生だった弟が自殺してしまうのです。このあたり、やはり明治は遠いなーと感じてしまいます。

  さて、こうした貞奴から森律子という流れも無視できませんが、大正期の女優といえば何といってもビッグネームは松井須磨子。あまりに著名なので今さら紹介するまでもありませんが、ごく簡単に彼女の履歴をなぞってみると……。
   須磨子は明治19年長野に生まれます。明治42年に坪内逍遥のもと文芸協会の俳優一期生となり、その2年後に『人形の家』でデビュー。文芸協会で逍遥の愛弟子・島村抱月と出会い、やがて2人で芸術座を旗揚げします。大正2年、トルストイ『復活』のカチューシャ役が大あたり。なにより「カチューシャの歌」や「ゴンドラの歌」などの劇中歌が空前のヒットをとばし、歌う女優として一世を風靡しました。ところが、大正7年の暮、世界的に流行したスペイン風邪で抱月が急逝すると、翌年の1月、師であり愛人でもあった抱月のあとを追って須磨子も縊死してしまいます。
   ここでは須磨子のことを云々はしません。が、ともかく彼女については毀誉褒貶が紛々。二度の離婚歴やら妻子ある抱月との関係、勝気な性格は役者の仲間うちでも評判が芳しからず、それでもおつりがくるほど人気がありました。当時から今に至るまで評伝の類はいくつも刊行され、話題にことかかない須磨子ですが、彼女自身にもひとつ『牡丹刷毛』という著作があります。袖珍サイズで赤いカバー付、いかにも大正らしい愛らしい造本。よく読まれたようで、ずいぶん版を重ね、装丁も変わって後版は竹久夢二が表紙を描いています。
  でね、実はここまでは話のマクラ、ここからが今回の本題となります。抱月須磨子の芸術座とか、益田太郎冠者の帝劇だとかの芝居は、確かに明治末から大正にかけて大いに人気を博したのは事実。「今日は帝劇、明日は三越」というわけです。ならば当時の、大正時代の芸能文化の中心はそこにあるの?と質されると、ううむ、と唸ってしまうのですね。そうなのかなあ。……何が引っかかるのでしょう。白状すれば浅草オペラなんです。今では名前だけですっかりその存在が忘れられてしまった、近代芸能史の仇花、浅草オペラ。
「……作の空想に耽ってゐる私は、日本館の歌劇を観にゆく誘惑に堕つてゐる私であつた。食堂に来た時には全く誘惑に占領されてゐる私自身を見出さねばならなかつた。何の為に観に? 勿論若い女優をみるために。そして多くの学生が、ひきつけられてゆく同じ心で……」
  これは大正六年暮れの日記の一節、筆者は誰あろう旧制一高に入学したばかりの川端康成。「日本館の歌劇」というのは浅草オペラのはしりで、すでに川端はこの舞台を何度も観ているらしい。同じころ先輩の谷崎潤一郎も浅草へ通っていて、川端はその姿も目撃しています。谷崎は大正9年に『鮫人』という浅草オペラを題材にした小説を書いており、未完に終わった失敗作ながら、随所に谷崎の浅草オペラ芸人に対する見方が述べられ、ちょっと興味深い内容になっています。
   さらに、♪ちいさい秋、ちいさい秋、ちいさい秋みーつけたー、のサトウハチローなどという往年の不良少年も浅草を根城にしていましたし、あの宮沢賢治も浅草オペラが大好きで、いっとき盛んに通っていたんです。彼の戯曲「バナナン大将(飢餓陣営)」など、あきらかに浅草オペラに影響された作品です。
  著名な文学者ばかり例にとりましたが、彼らはあくまで観客の一部。つまり当時の流行に敏感な若い男子、ちょっとトンがっている青少年は浅草に、そして浅草オペラに夢中だったんですね。「ペラゴロ」とよばれ、当時流行の最先端だったルパシカにベレー帽(!)というお洒落をし、せっせと浅草(エンコ)の劇場(こや)に通ったんです。むろん川端青年と同様「若い女優を観る」ために。
   そこは異国情緒に溢れ、妖しげで、エロチックでエネルギッシュ、つまり若い男子を夢中にさせる魅力に満ちた、スリリングな場所だったんです。以下、その舞台で活躍した一人の女優、高木徳子の話をいたしましょう。近年少しは認知されてきましたが、まだほとんど知られてない名前だと思います。
「気がついてみると、彼女は初物ずくめだった。日本人バレリーナの第一号でポップス歌手のさきがけ。日本のモダン・ダンスの先駆者で現代社交ダンスの最初の紹介者、ミュージカル女優の最初。そして、なんと言っても徳子は浅草オペラの創始者であった」
  これは『私がカルメン―マダム徳子の浅草オペラ―』(晶文社・平成元)の明治大学教授・曽田秀彦氏の高木徳子評。そう、徳子って近代芸能史の上で凄い存在なのです。さらにネットでこの本のブックデータを引用しますと。
  ……カルメンが徳子か、徳子がカルメンか――。マダム徳子、彼女こそアメリカ仕込みのミュージカルを大正期の浅草に花開かせた人である。その徳子が、なぜ、浅草から追われぬばならなかったのか? 夫との愛憎の日々。演出家・伊庭孝との恋。興行師たちの黒い影。「問題の女」徳子は、懸命に歌い、力つきるまで踊り、狂乱のはてに巡業先の九州で逝く。28歳。波瀾にとんだ女優の生涯を克命に辿りながら、大衆文化わきおこる大正期の魅力を浮彫りにする。書下ろし力作ノンフィクション。
  とのこと。だいたいの徳子像が見えてきますよね。この本は今読める彼女の最も正確な評伝ですが、古本屋は下記のような珍本も見つけてくるのです。
狂死せる高木徳子の一生』高木陳平述 黒木耳村筆 生文社(大正8年)
  語り手の高木陳平は元亭主。正直なところ内容はかなり偏っていますし、信用できない記述もあるのですが、それでも近親者による同時代の徳子を語るほとんど唯一の文献。まあこれをネタにちょっと。
  明治39年、15歳だった徳子は、いっとき日本に戻ってきていた米国籍を持つ高木陳平と結婚、渡米します。むろん彼女は芸の世界など何も知らない印刷技師の娘で、神保町のお隣の三崎町に住んでいました。陳平がどうして米国籍をもち、それまでアメリカで何をしていたのかはよく分からない。ただ、元からの芸人ではなかったようで、ともかく異国の地で、お金になりそうなことなら何にでも手を出す、一旗組みの1人だったのかもしれません。
  さてアメリカ。徳子と陳平はさまざまな仕事に就くのですがどうもうまくいかず、食い詰めてしまいます。やむなく2人はボストンの寄席にマジシャンとして雇ってもらい、旅芸人の一座と各地を巡業することに。しかしながら芸人として舞台にたつうち徳子の資質が、舞踏の才能がめざめてゆきます。
   やがて徳子はニューヨークで舞踊学校に通い、声楽も学びます。後にはマンハッタン・オペラ劇場の女優サラッコの内弟子となり、トゥ・ダンスとパントマイムを習得。さらに別のダンス・スクールにも通い、スパニッシュ・ダンスやインド舞踊まで習います。彼女は本当に舞踏が好きで、才能もあったようですね。
   むろん貞奴と同様に、日本娘のもの珍しさもあったのでしょうが、徳子は米国のショー・ビジネスの世界で着々と実績を積んでゆきます。本格的に西欧の舞踊を学んだ彼女は、この時点で日本人女性としてはオンリー・ワンの、本格的に歌い踊れる女優でした。さらに2人は大正2年に欧州巡業へ向かい、ロンドンを皮切りに活躍の場は徐々に広がるのですが、翌大正3年、モスクワ公演中に第一次世界大戦が勃発し、帰国を余儀なくされてしまいました。実はこの間、しだいに夫婦仲が冷えてしまい、帰国後しばらく、徳子は自殺未遂事件までおこして珍平と別居。のちに協議離婚します。
   日本に戻ってしばらく、徳子は帝劇に出演したり、一座を組んでアメリカ風のミュージカルを上演したりしますが、なによりその名が知れ渡るのは、大正6年に伊庭孝と組んで、浅草の常盤座で上演した喜歌劇『女軍出征』。これがともかく大受けして、連日超満員の大盛況。彼女の歌う劇中歌「チッペラリーの唄」は銭湯でも歌われるほどに流行します。浅草オペラの隆盛は、実にここから始まるのです。
  この大ヒットに目をつけた松竹は徳子に着目。さっそく契約して大々的に売り出そうとします。ところが盛況のうちに東京公演を終え、九州を巡業している最中に悲劇はおきました。そういえば最近も名の売れた漫才師が、やくざとの交際が明るみにでたという理由で芸能界から身を引くという騒動がありましたが、当時はそんなこと当たり前の話で、松竹は芸人につきものの地回りやら博徒から彼女を守るため、わざわざやくざを用心棒として地方巡業に同行させたんです。「ピスケン」こと嘉納謙治という男。そしてあろうことかそいつが徳子に乱暴をはたらいてしまう。この事件が引き金となり、彼女はかねてから持病だったヒステリーの発作に何度もおそわれ、ついに心臓麻痺で急逝してしまいます。
   彼女の最後を報じたのが「トーダンスの徳子発狂す。九州大牟田で入院−モウ舞台に立てまい」という、役に立たなくなった玩具を切り捨てるような新聞記事。なにやら切ない思いがします。松井須磨子が世を去って僅か3カ月のちの大正8年3月、僅々28歳、いつのまにか履いていた「赤い靴」で、必死に踊り続けた生涯でした。
  ……むろん徳子が没しても、浅草オペラの隆盛は続きます。「問題の女」徳子の跡目は、肉体派・河合澄子がさらなる人気を誇り、前記した川端康成は、実はこの澄子にぞっこんだったんです。さらに舞台の外でもキネマという新しい世界で、栗島すみ子、川田芳子、岡田嘉子などというスターが登場します。大正の女優たちの生きざまと大衆人気のありようについては、まだまだ語るべきことがあるのでしょう。が、とりあえず今回はここら辺で……。

『当世新版オッペケペー』
川上音二郎作並刊 明治22年12月 一枚

  いわゆるオッペケペー節の最初期のちらし。この頃川上は落語家に弟子入りしていて、オッペケペーもはじめは寄席の座興でしたが、この二年後に壮士芝居の役者として舞台に登り、たちまち大評判に。
「♪権利幸福嫌ひな人に。自由湯をば飲ましたい。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー。固い上下(かみしも)角取れて「マンテル」「ヅボン」に人力車 意気な束髪ボンネット。貴女に紳士のいでたちで。外部(うわべ)の飾は好いけれど 政治の思想が欠乏だ。天地の真理が解らない。心に自由の種を蒔け。オツペケペ。オツペケペツポペツポーポー……」

『喜歌劇ヘッベレケー』
佐々紅華編 テイッペラリー替作 大正6年6月1日

  流行歌の楽譜は戦前のものでも、比較的よく残されているのですが、これは珍しい浅草オペラの楽譜です。「テイッペラリー替作」とある通り、徳子の喜歌劇『女軍出征』の歌、チッペラリー人気にあやかって、さっそく作られた和製オペレッタ。「ヘッベレケー」が笑わせます。内容は、いつものように、へべれけに酔っぱらって帰宅した熊さんを女房がとっちめるのですが、今日に限って熊さんは強気。それもそのはず、無尽(仲間うちの宝くじみたいなもの)で大当たり、懐には三百円の大金を持ち帰っているからなんです。それを聞いた女房も大喜び。二人して手に手をとって歌いはじめる、という内容。
   「チッペラリー」は日本人にはあまりなじみはないのですが、もともと「It's a long, long way to Tipperary」というアイルランドの民謡。第一次大戦のとき英国の兵士が口ずさんでいたのが、敵味方をいとわず歌われ、いつの間にやら世界中に広がってしまった「世界的ヒット曲」の嚆矢(かな?)。かのスヌーピーも時おり口ずさんでいる名曲です。
   ちなみに佐々紅華は淺草オペラ隆盛時に活躍した一人。この喜歌劇の作者で替え歌の作詞者で、さらにこの表紙絵にも「紅華」の印があり、もともと東工の図案課卒であった紅華自身の筆と思われます。

『妾の半生』
村田栄子 須原啓興社 初版 青柳有美・尾島菊子序 大正5年
及び雑誌『生活』(博文館 大正4年4月号)共。

  雑誌には栄子の『旅役者の群と彼等の生計』を収録。今回、本文の方には登場しませんが、この村田栄子もまた当時、一方のスターといってよい人気女優でした。彼女は一座をかまえ全国を巡業するのですが、興業が不入りで金が尽きると、その土地で芸者になって借金を返したりと、実に本書は明治大正期の旅芸人の暮らしぶりや、興業界の裏を覗うに面白い内容です。
   尚、ここには「松井須磨子さんと私―『藝術座』京阪巡業日記―」も収録。いっとき所属していた藝術座で須磨子と共演した際に、須磨子から嫌がらせをうけたことを明記しています。

『女優生活廿年』
森律子 実業之日本社 初版 函付 昭和5年

  森は裕福な弁護士で代議士の森肇の次女。大正期には帝劇の看板女優として活躍しますが、帝劇解散後は松竹へ移籍し、主に新派で演じました。

『戀の須磨子とカチューシャ』
阿野二夢 春江堂 初版 大正8年2月

  大正8年1月5日に松井須磨子は、前年暮れにスペイン風邪で没した島村抱月を追うように縊死してしまいますが、これは早くもそのひと月後に刊行された伝記小説。巻末に当たり役となった『復活』の須磨子のセリフの一部やカチューシャの唄の歌詞、さらに『復活』のあらすじを付しています。

『牡丹刷毛』
松井須磨子 島村抱月序 新潮社 初版 カバー付 大正3年

  「強い自覚でなければ『人形の家』を打ちこわして『人間の家』に造りかえることは出来ないとおもいます」……だそうです。もちろん『人形の家』は、真の人間の生き方に目覚めたノラが、裕福な弁護士の夫・へルマンのもとから家出しちゃうイプセンの問題作。
   ちなみに家を出たあと、実際には甘ったれで我儘で浪費家なノラは、扉を後ろ手に……「ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら」。これは太宰治の意見です。

『鮫人』
前編 谷崎潤一郎 改造社 初版 函付 大正15年

  「浅草へ行きさえすれば、この都会にあるすべての享楽機関は大概そこに備わってゐるのである。但しその最も醜悪な形において――だが、どうせこの東京ではどこにも『美』を求めることはできないのだから、醜悪が醜悪そのままの姿で現れている浅草が、一番住みここちのいい場所だとは云へないことはないであらう。そこには下町の中心地や山の手にあるような虚偽や不調和がなく、醜悪がややもすると『美』に近い光を放って輝いてゐる」……のだそうです。結局未完に終わった作品で、未消化な印象をうけますが、ところどころに谷崎独特の逆説的な美感がナマな言葉で表明されており、そういう点では興味深く読めます。

『私がカルメン‐マダム徳子の浅草オペラ‐』
曽田秀彦 晶文社 平成1年

  著者は明治大学演劇科教授。大正演劇を研究の中心に活動するも、2004年に逝去されました。しばらくお目にかかる機会もなかったのですが、お世話になりました。謹んでご冥福をお祈りします。

『狂死せる高木徳子の一生』
高木陳平述 黒木耳村筆 生文社 大正8年5月

  日本人初のミュージカル・スター、わが国ショーダンサーの草分けで、浅草オペラの幕開け役を果たした高木徳子の、29年の生涯を語った伝記。話し手は元亭主の高木陳平で、彼は16歳の徳子を娶り、渡米して旅芸人一座と巡業。やがて徳子の才能が見いだされ、ショーダンサーとして成功の階段を登るが、しだいに夫婦仲に亀裂が……。
   上の口絵は「高木徳子のドラマポーズ」と「高木徳子のダンジン(*ダンシング)ポーズ」