実は今年、大正百年なのです。知ってました? 誰かにそのことを告げると、「そうなんだー、知らなかった」。驚かれはするものの、そこまで。
 「で、それがなに?」
 なぜなんだろう。大正時代に恩義はありません。が、なんか悔しい。よく口にするではありませんか、大正浪漫なんて。♪いーのーち短しー、恋せよ乙女〜。黒澤映画じゃあなく松井須磨子、ゴンドラの唄。カチューシャの唄なんてのもあった。カフェやミルクホール、ほの暗いアール・デコ風のランプ。猫を抱く竹久夢二の美人画とか、高畠華宵描く眼の艶っぽい美少年たち。「今日は帝劇、明日は三越」(@)。 それに活動写真、キネマの時代。シネマじゃないよキネマ、活弁トーキーだって。怪盗ジゴマやリガリ博士。大正デモクラシーなんてのも耳にする言葉でしょう。シベリア出兵、米騒動。今は口にしたくないけれど関東大震災もありました。そう、あの時代から百年たったんです。
 「そう言やあね。……それで?」
 あのさ、百年だよ百年。ほら明治百年のとき大騒ぎしたでしょう、猫も杓子も百年々々って。……まあ若い衆は知らないだろうけど。あんなに明治を贔屓にして大正が百年になったら知らんぷり。そりゃあ失礼ってもんでしょう、可哀想だ。
 というわけで、今さらながら、個人的に大正百年をセレブレイトしてあげようじゃないかと。そういう塩梅なのです。

 そんな事を言いつつ、実は苦い記憶が蘇る。話はここからはじめましょう。むかしむかし、学生時代のこと。あるとき不用意に「大正演劇」という言葉を使ったんです。たしか仲間と浅草オペラについて喋ってた。すると「ねえ、大正演劇ってなに? 演劇に於ける『大正』って。まさかまさかだけど、大正天皇が即位して亡くなるまでの期間ってことじゃないよね?」と駁され、一瞬言葉を失った。
 確かに元号は便利。しかし文化とか思想とかを元号が出てくると無理も出てきます。大正文学とか大正文壇なんて言うけれど、例えば新聞や雑誌の連載小説で中途に元号が変わったからといって、「ハイ明治は終わり。ここから大正文学ね」。そういう具合にはいかない。では「大正」なんて、元号のひとつにすぎないのか。いやいや、そうではあるまいぞ。明確な基準を指し示すことはできないけれど、やはり大正には大正っていう独特のアトムスフィアがある。大正浪漫(漱石が命名したそうですが)と呼ばれる所以があるはず。ならばそれは何なのか。
 古い書物を通じて、しばらくそんなことを探ってみようと思うのです。

 平成文学という言い方はまだ耳にしませんが、よく文学の世界では明治、大正、昭和(戦前戦後)という分けかたをしますよね。それも作品の刊行年ではなく、作家を時代区分することが多い。漱石や鴎外、尾崎紅葉、泉鏡花は明治。永井荷風や谷崎潤一郎、武者小路とか芥川は大正だな。川端康成や井伏鱒二、太宰治は昭和前期という感じでしょう。なんとなく納得できるんじゃないでしょうか。では本のカタチで、いかにも大正っていったらなんでしょう。
 まったくの私見ですが、大正の文学書は胡蝶本に始まり円本に終わる、という区分はいかがでしょう。「胡蝶本」(こちょうぼん)というのは俗称で、明治末から大正はじめにかけ、籾山書店が同じ装丁で刊行したシリーズをさします。すべて橋口五葉デザインによる木版刷りの蝶々の表紙で飾られた、天金角背上製の函付本。手に持つとちょっといい感触。全部で24冊刊行されましたが、刊行者でもある籾山庭後(仁三郎)の小説『遅日』(大正2年)――函は同じ仕様なのですが表紙は蝶模様ではありません――を加え、25冊で揃いとする向きもあります。籾山は子規門下の俳人で小説も書いていました。
 さてこの胡蝶本、全集や叢書などと銘打ってはいませんが、籾山が慶應出身ということもあって、おのずと主要メンバーが「三田文学」系の作家です。さらに、すでに名のある鴎外や鏡花、荷風を除けば当時の新進作家、吉井勇や久保田万太郎、水上瀧太郎、長田幹彦らが顔を揃え、意図的であったわけではないのでしょうが、のちに耽美派と称される作家たちが集っている感をうけます。指向性をもった文学全集のさきがけという見方もできましょう。そしてなによりここに、谷崎潤一郎のデビュー作『刺青』(A)、第二作『悪魔』が含まれているのが大きい。

〈其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云ふ貴い徳を持つて居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であつた。(「刺青」冒頭より)〉

 こういうスパッと明快な切り方、江戸時代と陸続きだった明治の作家にはできない芸当のように思えるのです。谷崎は江戸を客体化、対象化しているとも言えましょう。ゆえにこの胡蝶本をして新時代、大正文学の先駆とするに相応しい気がするのです。

 そして大正の掉尾を飾るのが「円本」といえるのではないでしょうか。円本というのは一冊一円で買える全集や叢書という俗称で、震災後の不景気で資金繰りにあえいでいた改造社が、起死回生の企画として刊行した『現代日本文学全集』(B)が口火をきり、以後さまざまな出版社から続々と出版されました。
 前記した胡蝶本の装丁が橋口五葉の木版装なら、この現代日本文学全集はモダン・ボーイの杉浦非水。機能的な布貼表紙(特製はクロス装)でボール紙の函入り。こちらはすでに昭和の香りがします。レトロでシックで和えやかな装いの胡蝶本に対し、モダンで直線的で機能的な現代日本文学全集。この違い、雰囲気、なんとなく感じとれませんか?

 ふむふむ。仮に最初とお終いはそれでよいとしても、そのまんなか、大正時代のアンコはどうなっているの? ふみふむ、たしかに書物の装丁がシックから機能性へピョンとジャンプしたわけではありません。

 誰かが、昭和初期の本の特徴を「太ってる」と表現していました。これは言い得て妙。「円本」の大きなウリは、たった一円で当時二円三円した単行本が二冊分読めますよ、お得ですよ〜、というものでした。円本自体はそうでもないのですが、昭和初期の単行本はデブ、いやいや活字の分量が充実している本が目立ちます。これも昭和モダンの特徴、「機能性」といってよいのかもしれませんね。その後の岩波をはじめとする文庫本も廉価で内容充実、そういた狙いが受け、本がよく売れた時代でした(C)。では大正浪漫というフレーズに値する書物といったら何? これも私見ですが袖珍本(しゅうちんぼん)ではないでしょうか。小型の本のことですが、この呼び名が好きなのです。巾箱本(きんそうぼん)とも言いますね。いずれ中国経由の言葉で、まあ袖に入るくらいの大きさの本、と理解してください。大小のいい例は夏目漱石(D)で、明治期(一部大正期)に刊行された初版本はみな菊版(A5判よりやや大きいサイズ)の堂々たる大きさなのです。それが大正期の再版は、装丁は初版を踏襲しているものが多いながら、みな縮刷版。文庫本に近い大きさのコンパクト・サイズに変身してしまいます。
 泉鏡花の本もそんな感じ。明治時代の鏡花の本は仮綴じ本やクロス装の本が多いのですが、みな菊版でした。それが大正期になると、それが初版であろうと愛らしい小さな函付本で刊行されているものが目立ちます。

 コンパクト・サイズの本。確かに持ち歩くのに便利ということもあるのでしょう。しかしながらそれ以上に、この可憐さがうけたに違いない。便利さや機能性だけではない証拠には、装丁に凝っているものが多いのです。この点では現代の文庫本とは比較にならない。漱石本なら橋口五葉や津田青楓が装丁し、鏡花といったら鏑木清方や小村雪岱が木版刷りで表紙を描いているのです。
 いや、ここでは漱石や鏡花は明治の作家ですから大正らしい名前をあげましょう、例えば胡蝶本でも登場した吉井勇や長田幹彦。かの竹久夢二が表紙や函を描いたこれらの本の人気は、今でも作品以上のものがあります。あるいは漱石の弟子に鈴木三重吉なんてのもいる。やがて筆を折り雑誌『赤い鳥』を刊行して児童文学のエディターとして活躍するので、今はそちらの方で名を知られます。けれども、彼が大正初期に立て続けに刊行した『三重吉全作集』(E)はすべて津田青楓のデザインで、しかも一冊ごとに異なる木版装。実に凝った造りなのです。のちに半七捕物帳で名を売る岡本綺堂の大正期に刊行された情話集なんてのも、みな袖珍本でした。 つまり可憐な木版装丁の袖珍本。ここではこれを、大正浪漫を代表する書物のカタチと認定し、表彰することにします。え? 私には異論がある? 俺は嫌だ? いえいえ、聞く耳もたないのであります。
  ♪ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパ〜イ
 パリコト パナナで フライ フライ フラ〜イ
 (添田さつき作詞「東京節」より)

@三越百貨店大正3年春の
売出用ポスター
浦非水作

杉浦非水は、グラフィック・デザイナーの先駆として近年とみに注目されています。もともと芸大で日本画を学んでいたのですが欧州帰りの黒田清輝の教えに感化をうけ、デザインの道へと転進。大正期の三越の嘱託デザイナーとして活躍したことはご承知の通り。

A『刺青』谷崎潤一郎著
籾山書店
胡蝶本

胡蝶本とは、明治末から大正初期、籾山書店が刊行した一連の文芸書のこと。橋口五葉の蝶模様の表紙からこう呼ばれています。内容は以下の通り。
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泉鏡花『三味線堀』、岡田八千代『絵の具箱』、小山内薫『大川端』『鷽』、久保田万太郎 『雪』『浅草』、谷崎潤一郎『刺青』『悪魔』、永井荷風『すみだ川』『牡丹の客』『新橋夜話』『紅の後』、長田幹彦『澪』、正宗白鳥『微光』、松本泰『天鵞絨』、水上瀧太郎『処女作』『その春の頃』、森鴎外『みれん』『我一幕物』『続一幕物』『青年』、吉井勇『恋愛小品』、平出修『畜生道』の24冊。
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これに番外として刊行書肆の主人でもある籾山庭後『遅日』を加えて揃いとすることもあります。この本は、函だけ見ると胡蝶本と同じですが、表紙を違えています。

B現代日本文学全集』
改造社

円本とは、改造社の『現代文学全集』全63巻を皮切りに、昭和初期、一冊一円で刊行された一連の全集や叢書類を指します。『世界文学全集』(新潮社 57巻)『世界大思想全集』(春陽堂 126巻)『明治大正文学全集』(春陽堂 60巻)『現代大衆文学全集』(平凡社 続共60巻)などのほか、普及版の漱石全集、啄木全集、菊池寛や徳富蘆花の全集も刊行されました。

C祇園全集 絵日傘』長田幹彦著 竹久夢二木版装
玄文社 大正8年〜 5冊揃

函や表紙、口絵もすべて夢二美人画でかざられた、大正らしい和えやかな造り。数多い夢二装丁本のなかにあって、屈指の出来です。

D草合』夏目漱石著
春陽堂 初版本(明治41年)と
縮刷版(大正6年)

初版本(上)は橋口五葉の装丁で、帙に納められた漆表紙本。凝った造りの多い漱石本のなかでも異彩をはなっています。縮刷版(下)は津田青楓の木版表紙。さすがに初版本ほどの凝りようではありませんが、良い装丁です。

E三重吉全作集』鈴木三重吉著
春陽堂 大正4〜 13冊刊行

夏目漱石題字、津田青楓装丁、伊上凡骨木版。一冊ごとに異なる表紙で飾られた袖珍版の可憐で瀟洒な造。実はこれを刊行するために三重吉は私財をすべて投じ、多大の借財をかかえたそうです。